感想文

舞台とか映画とかの感想を書いたり書かなかったり

舞台化について高校生が考えたこと


昨今の舞台化について、友達との意見の食い違いが疲れたのでつらつらと思っている事を書きたいと思います。

私は、2次元のみのオタク期を経て2次元も3次元(舞台)もどっちも好きなオタクです。好きな俳優もいる。そして舞台は2.5より普通の舞台の方が好き。

友達は舞台化実写化絶許、根絶せよ派

この間、TLに舞台化は声が違うのが違和感だから声優が舞台やる的なツイートが流れてきました。それで糸が切れた感じです。


私はもとよりアニオタと言われるのがとても違和感でした。舞台とか全く見ていない時も。私が好きなのはアニメではなく推しです。
友達はまずこの考えが理解できないみたいなのですが、私からしたら深夜アニメを1クール毎に全部録画して、1話を見て切っていくみたいな人を理解ができません。

多分、今回の意見の食い違いはこの根本的な考え方の違いだと思います。

私も友達も、好きな作品のメディアの広がりを色んな形で体験してきました。漫画小説アニメゲーム舞台映画、宝塚やハリウッド、CMなんてものもあります。

そして、私はA作品は漫画アニメゲーム舞台全部見れるけど、B作品はゲームアニメはOK舞台はNG、〇〇の声は△△じゃないと無理、C作品は原作以外受け付けないという風に作品毎に許容範囲が変わります。
友達は3次元系は全てムリです。

そういう風にオタクをしてきた中で、現時点で私が達した結論について書いていきたいと思います。
話の最終着地点は、どこまでをキャラクターとして許せるかは人それぞれだねって感じです。
何を当たり前のことをって感じですが一生懸命考えた事です。

例えば漫画が原作の作品のアニメ化をするとするじゃないですか。多分、この時点では「キャラが動くなんて解釈違いだ」「キャラが喋るなんてありえない」みたいな意見ってあんまり出てこないと思います。少なくとも友達が言っている事を見た事はありません。

でも、舞台化をすると友達は「こんなんじゃない」「声が違う」「気持ち悪い」と罵詈雑言です。

一体アニメ化と舞台化、何が違うんですかね。
もうここで一体何が違うのかって疑問を抱く時点で友達と私の溝は深いんだなぁと思います。

それを探る為に友達と話していると、キャラクターに対しての考え方からして全然違うんですよ。面白い事に。

友達は、漫画、アニメ共に2次元のキャラクターはキャラクター本人。アニメの場合は声優の声も含めてキャラクター本人。
だから舞台化はそのキャラクター本人を別の人が演じている感覚。

対して私は、推しは概念であり、それを具体化して表現しているのが漫画、アニメ、舞台その他諸々のメディアという感覚です。

そりゃ話が噛み合うわけがないんですよね。

友達にとって、声優の声はキャラクターそのものの声だけど、私にとってはその人の声を通して表現されているキャラクターの声なんですよね。だから、舞台になった時に友達は「(キャラクター本人と)声が違う」となるし、私は気にならないんだと思います。


少し話が脱線するのですが、前にツイッター上でフォロワーさんと話していた時にも似たようなことがありました。
もうここまでくると作品が特定されちゃうと思うんですけど笑、原作者(漫画家)のライブに同じキャラクターを演じた声優さんと舞台のキャストが呼ばれたことがあったんです。
私のフォロワーは原作アニメだけの人、原作アニメ舞台OKな人、舞台だけな人と様々でTLにはいろんな意見が出てくる出てくる。
私は原作アニメ舞台全部OK派なのですが、その時に原作アニメだけの人とリプを飛ばしあっていた時に「本物の〇〇くんは〜」と言われたんですね。この人の指す本物の〇〇くんはアニメや原作の〇〇くんの事で、多分舞台の〇〇くんが偽物だとかそういうことが言いたいわけじゃなかったと思うのですが、マジか〜〜と思った記憶があります。ショックというよりは、ハッとさせられました。
舞台OK派とNG派だと、こんなにも見え方が違うんだなぁと思ったきっかけです。

話を戻します。

友達は、2次元→2次元はほぼ全部OKだけど、2次元→3次元はほぼ全部NG。
私は、2次元→2次元だろうと2次元→3次元だろうと、OKかNGは時と場合によるんです。


ここで最初に書いた、アニオタと言われる事に違和感を覚えるという内容が戻ってきます。
私は、アニメが好き、アニメを見るのが好き、アニメで表現されている推しが好きなのではなく、推しが表現されているからアニメを見るんです。だから漫画でも舞台でもドラマでも映画でも、推しが表現されているものはアリなんです。だってそれは推しだから。

じゃあなんでA作品は舞台観れるのにBはダメみたいなのが発生するかというと、さっき言った「漫画でも舞台でもドラマでも映画でも、推しが表現されているものはアリなんです」という言葉には「私が認めれば」っていう前提があります。好みによるんです。
認められない理由は解釈違いとか、その俳優が生理的にムリとか、脚本家が嫌いとか、原作のゲームが最高すぎて他の人が演じるのを受け入れられないとか、そういう理由です。


「私が認めれば」ってめちゃめちゃ自己中に聞こえますが、私は仕事や義務で作品や推しを好きなわけじゃないのでアリだと思います。ただ、認められないのを表面に出すか否か、出すならその時の態度とかは考えなきゃだと思います。でもそれは今話したい事じゃないので割愛します。
ここまでは私の話です。

じゃあ友達はどうでしょう。
もう結論は出ていて、舞台の時点で他人なんですよね。舞台はキャラクターが他人に演じられているものであって、キャラクター自身じゃないんです。友達にとってキャラクターをキャラクター自身として認められる範囲は、イラストと声優までだったという話なんですよね。だから舞台を批判する時に、アニメと比べちゃうんだと思います。

私にとってアニメ漫画舞台はキャラクターを感じ取る事が出来る媒体だけど、友達にとっては漫画やアニメはキャラクターに必須の要素なんだと思います。かっこよくいうとキャラクターのアイデンティティ。そのキャラクターがそのキャラクターである為には2次元である事が必須。

ただ、私にもB作品の舞台は受け付けない、C作品は原作しかムリみたいな状態が発生するので事がこじれていたんじゃないかなぁと思います。
パッと見、友達も私もB作品の舞台は受け付けないと言っている様に見えるけど、作品やキャラクターとの向き合い方を突き詰めてみるとNGの意味が全く変わって来るんです。


よくよく考えてみると、アニメの範囲の中だけでも友達はデフォルメ絵が大好きだけど私はあんまり価値を感じないと、キャラクターをキャラクターとして認められる範囲や要素って次元の話だけでなく人それぞれなんだと思います。
友達は二次創作も大好きだけど私は発信者が公式じゃないと嫌とか、考えれば考えるほど出てきます。
キャラソンはOK?NG?とか。キャラソンだって、声優さんが映像に声を当てて表現する事から歌う事で表現することにシフトチェンジしているんです。キャラソンになれば作詞家作曲家のキャラ解釈も織り込まれて来るわけで、これもやっぱりキャラクター自身として認められるか否かは受け取り手によると思います。

それでも私も友達もただの作品のオタクだから、公式発表があった時点で賛成反対を言ったところで何の意味もなくて、見たくないなら近づかないくらいしか手はないんですよね。
多分友達は、自分は認めていない舞台化されたキャラクターが、公式はそのキャラクターだと断言するし、舞台から入った人はそのキャラクターを自分は認めていない舞台でのキャラクターで判断するし、そういう嫌な思いをたくさんしていると思うんです。その嫌な思いが爆発して舞台絶許根絶せよになるんだと思います。

散々友達との相違点を上げてきたのですが、私はこの友達とはずっと仲良くしていきたいと思っています。自分がキャラクターをキャラクターと認められる範囲を認識して、上手く出回っている情報を取捨選択してほしいなと思います。どうやって伝えようかな。


また、アニメが好きだから手当たり次第アニメを見る人がダメとかそういうことを言っているわけでもないです。私は舞台が好きだから舞台は行ける時に手当たり次第観に行ってみることもあります。ただ、私にとってアニメとかゲームとか漫画はそれ自体が好きだから手にするのではなくキャラクターが好きだから手にするんだよっていうだけの話です。
だから、舞台オタと言われることに疑問はありません。

全ての人がこれに当てはまるなんてそんな主語の大きい事を言っているのではなく、これは私と友達の話です。
ただどうしても腑に落ちなくて考えを整理する為につらつらと書いてみました。